富猫堂

吉祥寺・井の頭公園にあるネルドリップ珈琲の店 トムネコゴ の店主のブログ

『雨』

その日は朝から雨が降っていた。目を凝らし、耳を澄ますと、微かにその存在を感じることが出来る、そんな静かな雨だった。それはあらゆるものを音も無く濡らし、あらゆるものを灰色に染める。そんな憂鬱な雨だった。
僕は窓越しのそんな光景を見ると急いで朝食を済ませ、食器を洗い、歯を磨いた。それから軽く着替え、ジャンパーを羽織り、本と煙草だけを持って家を出た。「こんな日は読書に限る。」傘もささず、小走りで、近所のカフェへと向かう。「いつもの店のいつもの席、いつもの珈琲といつもの読書。」雨の日の僕の典型的な過ごし方だ。

その日は珍しく混み合っていた。2、3席しか空席がなく、僕が座ると直ぐにそれらも埋まってしまった。レジで珈琲とオレオクッキー2枚を買い、奇跡的に空いているいつもの席へと向かう。そこは一面のガラス壁に面したカウンター席で、目の前には隣接する井の頭公園が広がり、それを煙草でも吸いながらのんびりと眺める事が出来る。僕は珈琲とオレオクッキーをカウンターの上に置き、ジャンパーのポケットから煙草と本を取り出してそれも置いた。それから頬杖ついて、雨の井の頭公園をぼんやりと眺めた。

その男性を意識したのはまずその音だった。少し大き目の用紙、例えば建築物の図面や音楽の譜面などを捲る時の“パサリ”という音。それが隣から断続的に聴こえ、気になり、何気なく顔を向けた。するとそれはまさしく譜面だった。それもフォークソングなどの簡単なコード譜ではなく、一面びっしりと音符で埋め尽くされたシンフォニーの総譜。上段に『マーラー交響曲 第1番』という文字が見える。「『巨人』ですか?」思わず、僕はそう声をかけていた。

雨は変わらず降り続いている。それは公園の樹々を濡らし、ベンチを濡らし、ボートを濡らす。大きな黒猫が一匹、巨大な木の下で雨宿りをしている。彼は前足で顔を拭いたり、肉球を舐めたり、欠伸をしたり。特に足止めをくっている事を不満には思っていない様子。あるいはそこで誰かと待ち合わせをしているのかも知れない。ミケのミーコ、あるいは、トラのジョージと。

「何でしょうか?」男性はゆっくりとこちらを振り向き、まるで難解な抽象画を見る様な眼つきで僕を見た後にそう応えた。豊かなテナーのヴォイス。落ち着いた語り口。歳は50代半ばくらいで髪には白いものが目立ち、それが耳にかかるくらいの長さで綺麗に整えられている。左耳に小さなピアスが一つしてあり、それが時折冬の北極星の様にキラリと光る。黒いコートの襟を立て、柿色のマフラーを首にかけ、そのどれもが上質で高級そうに見える。“ハイクラス”。まさにそう言う感じだ。

「…何でしょうか?」
「あ、いや、マーラーの1番と見えたので、『巨人』かなと」
「…そうです。…巨人。…タイタン。……クラシック音楽がお好きなんですか?」
「はい、好きです。特にマーラーは」

男性は少し驚いた顔をして改めて僕を見た。マーラーファンは珍しいのかも知れない。あるいは、僕がどう見てもクラシック愛好家には見えないからかも知れない。汚れたジーンズにほつれの目立つセーター、その上から襟の立たないVANのジャンパーを着て安物のマフラーをぐるぐると首に巻いている。髪はボサボサで指には“ハイライト”。漱石の『草枕』が開いたまま伏せて、灰皿の横に置いてある。
男性はまず僕を見て、“ハイライト”を見て、『草枕』を見た。そこでしばらく目が留まり、何かを考え、再び僕を見た。まるで譜面の音符の意味を一つ一つ探っていく様に、目に留まるもの全てに時間をかける。そんな印象がある。

「…失礼ですが、マーラーのどの様なところがお好きなんでしょうか?」
僕はそれについて考え、そして一気に喋る。
マーラーの音楽には、ベートーヴェンブラームスと比べて、より多くの感情が聴こえる様な気がします。嫉妬や卑しさ、欲、コンプレックス、そして夢や希望など。それらが複雑に絡まり合い、混ざり合って、巨大な音を成している。それが時に強く僕を揺さぶり、圧倒する。その巨大な音の波に飲み込まれてしまうと、僕らはただ沈黙し、後は“それ”を受け入れるか受け入れないかしかない。その中間は無い。そして僕は“それ”を受け入れる……そんな感じです」
男性の目つきが“難解な抽象画”から“平易な具象画”へと変わり、さらに表情のこわ張りがとれて逆に活き活きとしたものになってくる。まるで何かもの凄く楽しい事を目の前に見ている人の様な表情に。例えば、サーカスを見る子供の様な。

「…失礼ですが、あなたはいつもその様な話し方をされるのでしょうか?」
「と言うと?」
「とても率直に、堂々と意見をおっしゃる」
僕はそれについても考え、また一気に喋る。
「回りくどい事が苦手なんです。お世辞や世間話的な事も。昔はそうじゃなかったと思うけど、東京に出て一人暮らしを始め、しばらく経って気づくとそう言う自分になっていました。どうしてだろう…。おそらく、知らない土地で独りきりになったと言うのが大きいんだと思います。独りになって、結果的に自分と向き合ったと言うか。そうすると何が大切で何が大切でないかが自分なりにはっきりしてきて、それに優先順位をつけて生活するようになって、だんだんと自分が変わっていったような気がします。着るものも食べるものも、付き合う人も。それは自分にとっては良い変化だったんだけど、家族はそうは思わなかったみたいで。それじゃ社会に出て困るとよく電話で母親に言われました。でも僕は心に思っている事しか今は言えないし、言いたくないんです。それで困ったとしてもそれは自業自得だし、それはその時に考えればいい。ただ僕としてはもっと大切にしたい事がある……可笑しいですか?」
男性は堪え切れずに声を出して笑った。「はっはっは」といかにも楽しそうに。それから「失礼」と言って僕の顔をまじまじと見た。

「何も可笑しくて笑った訳ではありません。気分を害されたら謝ります」
「いや、僕もそう言うつもりで言った訳じゃないです。ただなんと言うか…」
「変わってる?」
「はい。皆んな僕の事をそう言いました。あいつは変わってるって。だから笑われても当然のような気がします」
男性は目を細めて何度か頷いた。それから「もし良ければ煙草を1本頂けますか」と言った。僕はハイライトを2本取り出して1本を彼に渡し、マッチで両方に火を点けた。近づくと微かに香水の匂いがした。彼は「メルシ」と言ってにっこり笑い、いかにも美味そうにそれを吸った。それから窓の外に目をやり、そこに広がる灰色の世界をしばらく眺めていた。雨は少しだけ強くなったようだ。

雨は少しだけ強くなっている。それは水滴となってガラス窓を滑り降り、世界の在り様を少しだけ歪めて見せている。それは樹々を歪め、ベンチを歪め、黒猫を歪める。…黒猫?そう、彼はまだそこに居る。大きな木の下で、独りで、ポツンと。待ち人(猫)はまだ来ないのだろうか?あるいは、“もう来ないのだろうか?”。

「……マーラーも率直な人でした。心にもない事は一切言えないし、また出来ない人でした。それで多くの敵を作り、多くの人に嘲笑されました。愛する人も失いました。彼には自分だけの世界があり、それを何よりも大切に生きていました。そこには友人も家族も受け入れてもらえず、ただ芸術の神のみが生きていました。そこに居ると、おそらく彼は幸せだったのだと思います。…失礼ですが、あなたは何かご自身で神をお持ちですか?」
何も持ってません。僕はそう答えた。
「何かお持ちになると良いと思います。心の中に、自分だけの神を。私は何も宗教の話をしている訳ではありません。神にも色々います。音楽の神や文学の神、あるいはスポーツの神、教育の神、政治の神…。大事なのは、本当に信頼できるものを見つけて、そこに留まる事です。そこから離れない事。それも出来るだけ誠実に、謙虚に。そしてそれを愛そうと努力すること……私の話は難しいでしょうか?」
少しだけ。でも何となく分かる様な気がします。
「その何となくで良いのです。全てを分かる必要はありません。きっかけさえあれば、後はご自身で気付かれると思います。そして、私の印象では、あなたはすでに神をお持ちの様に見えます」
話を聴いていて、僕もそんな気がしました。でも言葉では上手く言えません。
「言葉にしなくても良いのです。言葉は、“それ”に比べたら、全く大したものではありません。言葉は最後で良いのです」
言葉は最後…。
「ええ。それよりはもっと大切な事があります。あなたがおっしゃった様に。それを大事に生きて行けば良いのです」

雨は更に強くなる。黒猫は、“もうそこには居ない”。

男性が帰った後も僕はしばらくそこに居た。そこに居て、ただ雨を見ていた。
自分の中に今まで感じた事のない感情が湧き上がって来るのを感じていたけれど、それを言葉にする事は出来なかった。“ただそこに在るという事だけが分かった”。

雨は相変わらず降り続いている。それは永遠に降り続くように思えた。

  

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