富猫堂

吉祥寺・井の頭公園にあるネルドリップ珈琲の店 トムネコゴ の店主のブログ

『かうひいや3番地』

その喫茶店は駅から離れた場所にひっそりとあった。
街の喧騒を離れ、商店街を過ぎた辺りに、静かに存在していた。
柔らかな照明と落ち着いた雰囲気、静かな常連客と寡黙な店の主人。
いつ行っても変わらぬそんな情景の一隅に、あの頃の僕の“居場所”もあった。
世間知らずで、孤独で、他人の痛みが(今よりも)分からない、そんな若者の唯一の“居場所”が。

その喫茶店ではネルで落とした珈琲を出していた。
それは深く、濃く、まろやかで、ノドを滑らかに落ちて行った。
飲み切ったカップの中に、いつまでもその残り香が漂っていた。
僕は珈琲をブラックで飲む事をそこで覚え、おかわりする初めての経験をそこでした。
それで自分が大人になったとは思わなかったけど(今も思わない)、“何かしら新しい段階に入った”とは感じたと思う。

その喫茶店の旧いスピーカーからは古いジャズが流れていた。
例えばジャック・ティーガーデンの歌う『アラバマに星落ちて』。
例えばケニー・バレルの弾く『ミッドナイト・ブルー』。
僕はその歌声やギターのサウンドに魅せられ、それが好きになり、それを買い求めた。
そうやって一枚一枚コレクションしていき、部屋の棚が埋まっていくのが嬉しかった。
自分が広がっていくことをあの頃の僕は強く求め(今も求む)、それに応える何かがその店にはあったのだと思う。

その喫茶店の本棚にはある2冊の本が置いてあった。
和田誠が絵を描き村上春樹が文を寄せた『ポートレイト・イン・ジャズ』。
荒木経惟が自身の妻の生と死を写した『センチメンタルな旅・冬の旅』。
片や心温まるジャズエッセイ、片や深く胸を打つ私小説的写真集。
どちらもその店で初めて出会い、すごく好きになり、何度も何度も読んだ。
ある時からはそこに行く度に、まるで儀式の様に、それらの本を開いた。
それは僕の滋養となり、糧となって、あれから15年以上経った今でも僕の中の大切な場所に収まり続けている。

その喫茶店の何が特別だったんだろうな、と思うことがあります。
似たような雰囲気のお店は他にもあったけど、何かが決定的に違っていました。
その何かを言葉で説明するのは困難だけれど、体で理解するのはいとも容易い。
あなたは500円玉を持ってその店に行き、席について珈琲を頼むだけでいい。
待っている間に本を読んでもいいし、手ぶらで行っても何の問題もない。
そこではジャック・ティーガーデンが素敵な歌を歌っているし、『ポートレイト・イン・ジャズ』はあなたに開かれるのをジッと待っている。
あなたはいつかその本を開くかもしれない。(きっと開くでしょう)
そしてこんな一説に出会うかもしれない。(きっと出会うでしょう)
“…それも孤独のひとつの切実な形なのだ。悪くない。寂しいけれど、悪くない。
僕はそのころ、いろんな孤独の形をひたすら集めていたような気がする。山ほど煙草を吸いながら”
あなたは満足して本を閉じ、出された珈琲に口をつける。
それから煙草に火を点け、「悪くない」と呟いてみる。
あの頃僕がそうした様に。

 

これらは全て、昔(10年以上前)吉祥寺にあった喫茶店『かうひいや3番地』での個人的な思い出(mémoires)です。そこはあの頃(20代)の僕にとって最も大切な居場所でした。そこで過ごした多くの時間とその記憶は、時を超えて、そのまま真っ直ぐ今の自分へと繋がっています。

トムネコゴ店主

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